「近づくな。離れて見なさい」——動物病院の診察室で、私が若い獣医師に最初に言うこと

獣医師向け・臨床技術

新人獣医師が診察室に入るとき、ほぼ必ずこうする。

診察台に近づき、動物に手を伸ばし、聴診器を当てようとする。

私はそのたびに言ってきた。

「待て。近づくな。まず離れて見なさい」

この一言が、その後の診察の質をすべて変える。


「近づく」ことで失われるもの

動物は、人間が近づいた瞬間に変化する。

犬は緊張して体を強張らせる。猫は息を潜める。呼吸が速くなる。筋肉が収縮する。表情が変わる。

つまり——あなたが近づいた瞬間から、その動物の「自然な状態」は消えてしまう。

診察台に乗せられ、見知らぬ人間に触れられた動物の心拍数・呼吸数・筋緊張は、すでに「病院モード」になっている。その状態で測った数値が、本当の「その子の状態」を反映しているとは限らない。

離れて見ることは、「まだ手が加えられていない、その子の真実の姿」を観察する唯一の機会だ。


離れて見る「5秒間」に何を観るか

診察室のドアを開けて、飼い主と動物が入ってきた瞬間。あるいは、まだ飼い主の腕の中にいるとき。

その5秒間で、以下を一気に観る。

姿勢・体重負荷

  • 四肢均等に体重がかかっているか
  • 片脚をかばっていないか
  • 座位・伏臥位のとり方に違和感はないか
  • 頭頸部の傾き(斜頸)はないか

呼吸パターン

  • 胸とお腹の動きのバランス
  • 呼吸数(離れているうちに数える——近づいたら正確に数えられない)
  • 開口呼吸・腹式呼吸・努力呼吸の有無
  • 猫が開口呼吸をしていたら——それだけで緊急度が跳ね上がる

全体の「元気度」

  • 目の輝き・視線の動き
  • 耳の向き・尾の位置
  • 部屋への好奇心があるか、それとも無関心か
  • 飼い主の顔を見ているか、それとも遠くを見ているか

体型・被毛

  • 痩せているか、太りすぎていないか(BCS)
  • 被毛のツヤ・パサつき・局所的な脱毛
  • 腹部の膨満・非対称がないか

「歩かせる」という最高の診察

可能であれば、診察台に乗せる前に床を歩かせてほしい

歩様ほど多くの情報を一度に与えてくれる所見はない。

  • 神経症状(ふらつき・後肢の交差・つまずき)
  • 整形外科的問題(跛行の部位・程度・パターン)
  • 全身の筋力・体幹のバランス
  • 意識レベル・環境への反応性

診察台の上では絶対にわからないことが、たった10歩歩くだけで明確になる。

私は長年、「まず歩かせる」を習慣にしてきた。これだけで誤診が何度防げたか、数え切れない。


「飼い主の腕の中」こそ最も正直な観察窓

待合室で、あるいは診察室に入ってきた瞬間の、飼い主に抱かれた状態——。

これが「その動物の最もリラックスした状態」に最も近い。

飼い主の腕の中で、その子はどうしているか。

  • ぐったりしているか、キョロキョロしているか
  • 腕の中で逃げようとしているか、ぐったりもたれているか
  • 自分から下りようとするか、動こうとしないか

この観察だけで、「今日のこの子は重篤かどうか」の8割が分かる。

重篤な子は、動物病院への恐怖心よりも、疾患が優勢だ。だから診察室に入っても逃げようとしない。環境への反応が乏しい。これは最重要サインである。


近づいてはいけない「もう一つの理由」

これは安全の問題でもある。

初診の動物、特に猫は、見知らぬ人間に急に触れられると咬む。引っ掻く。パニックになる。

そしてパニックになった後の動物は、本来の所見を失う。怖がって過呼吸になった猫の呼吸数を測っても意味がない。緊張で全身に力が入った犬の腹部触診は不正確になる。

離れて観察する時間は、動物を落ち着かせる時間でもある。

獣医師が遠くでゆっくり動き、静かな声で飼い主と話している間に、動物は少しずつ「ここは安全かもしれない」と感じ始める。その後で近づいた方が、診察の質は格段に上がる。


「観察する力」は「考える力」である

離れて見るということは、単に「待つ」ことではない。

その数秒間に、仮説を立てているのだ。

「歩き方が少しおかしい。右後肢かな。痛みか、神経か——」
「呼吸が少し速い。腹式が強い。胸水か横隔膜か——」
「目の輝きがない。元気がない。熱かもしれない——」

この仮説が、その後の触診・聴診・検査の方向を決める。

何も考えずに近づいて機械的に検査する獣医師と、離れた5秒間で仮説を3つ立てている獣医師——。同じ検査をしても、見えているものがまるで違う。


診察室はステージだ

私が若い頃、師匠にこう言われた。

「診察室に入ったら、まず止まれ。役者が舞台に出てすぐ動くか?まず客席全体を見るだろう」

その言葉が今でも刺さっている。

診察室という舞台に上がったとき、主役は動物だ。獣医師は観客であり、演出家であり、最後に介入する存在だ。

最初に動いてはいけない。まず見る。感じる。考える。

そして「今、この子に何が必要か」が分かった瞬間に、初めて近づく。


45年間、変わらない診察の入り口

機器は進化した。検査は精密になった。AIが診断を補助する時代になった。

しかし私の診察の入り口は、45年間、変わっていない。

ドアを開ける。止まる。離れて見る。5秒間、全部を感じる。

それからゆっくり近づく。

この5秒間に、診察の半分が終わっている。

若い先生に伝えたい。診察台に急いで近づく必要はない。その焦りは、動物への不安を増やし、自分の観察眼を曇らせる。

「近づくな。離れて見なさい」——

これは私が45年間、自分自身にも言い続けてきた言葉だ。


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コメント

  1. 井出 謙 より:

    僕は獣医師でもなく全くの素人ですが、人間も動物も感情をもつ動物、と僕は思います。

    先生の永年の経験に基づく勘というか洞察力は重要だと心からそう思います。

    人間さえ、普段の姿勢・立ち振る舞い・言葉使いでその人の日常が「声」で判る。

    飼い主の動物に対する接し方も同様であるかもしれません。

    また飼い主と共に暮らす動物達の立場からすれば、いきなりの触診や検査で飼い主から離され検査を受けることは、ストレッサーかも知れません。

    どうかこれからも先生の「観察力」を次世代の獣医師さまに継承してください。

    それにより、訪れる飼い主様や主役である動物達が安心する。

    プラス獣医師様やスタッフ様との信頼構築並びに病院の繁栄にもなるのではないでしょうか。

    ド素人の僕ですが、動物を愛するひとりとして先生のコンサルは非常に自他ともにためになりこれからも沢山の方々にみてもらいたい気持ちです。

    感謝申し上げます。

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